(画像取得元 ぱくたそ(pakutaso.com)さん)
自分の至らなさ・詰めの甘さ等に因る2級不合格以来の「失意のどん底初準指導員検定不合格」から所属組織の移籍、別のスキー関係の仕事、奥さんとの出会い・結婚、そしてスキーの仕事をやめるまでの話を中心にお送りします。
お付き合い頂いた皆さん、もう少しで完結です!(笑)
養成講習実技にて
初回準指導員(以下「準指)受検の実技養成講習、同じ班になった人達の中に中越地区(長岡市近隣から湯沢温泉・苗場等にかけての地域)のある組織所属の「Kさん」という人が居て何故か意気投合!
Kさんは合格、自分は残念ながら不合格となったんですけど、Kさんは検定後も自分の事をそれとなく気にかけてくれてたらしく、検定後日に同じ会場(ちなみに自分が居たエリアからリフトを乗り継いで行き来できる)で行われた初回指導員研修で訪れた際に自分の宿舎を訪ねて来てくれたんですよね。
旅館街の店で一緒に飲んだ時に自分が話す所属先の事情に対し
「検定合格を目指すという意味ではお世辞にも良い環境とは言えないよなぁ・・」
という部分で意見が一致。
そしてKさんの口から
「ペンパパ君がその気なら来シーズンうちの組織・スキー場入れるかどうか上の人に聞いてあげようか?この場で大丈夫って確約はできないけど、常勤メンバーも基礎スキー派メインだし、泊まり込みの人も一応居るし、今のとこよりは居心地いいとは思うよ。何より、来年の準指検定の会場うちのスキー場だしね♪」
移籍
「スキー場と所属組織を移す」
という考えはKさんから話を持ちかけられた時点では発想してませんでした。
無論「仕える所は絶対生涯一つ!」と思ってた訳ではなく、将来スキー場に常勤する生活から世間一般的な社会人生活に変わった際、地元奈良若しくは近隣府県連盟内の組織に移る事も想定はしていたんですが、一度所属した所を少なくとも常勤生活の間にコロコロ変えるのもあまり良いことではないような気もしていたんですよね。
ただ、日にちが経つに連れてやはり
「目標達成と自分の居心地が第一!」
という思いの方が強くなり、Kさんに連絡してスキー場の上役の方及びスキー組織代表の方に話を通してもらいました。
待つこと数ヶ月、夏の終わりにKさんから連絡があり、9月某日そのスキー場で面談が行われることとなりました。地元でバイトの面接受けるより緊張しましたね、正直・・
話は思ってたよりトントンと進み、面談の結果は無事合格!
奈良に戻ってからすぐに、面談での指示に従って新シーズンのSAJ会員登録・所属組織移籍及び準指検定養成講習会申し込み手続きを取りました。そして手続き完了直後の某日、偶然にも元のスキー学校の上司から連絡があり、新シーズンから所属組織及びスキー場を移すことを伝えました。
「お前なぁ!!お前が学生の時から足掛け3年、一緒に冬過ごして働いてきた間柄だろぉ?なんでもっと早く相談の一言も無かったんだよぉ!!」
と最初は怒られましたが
「まぁお前がお前の行く末を考えて出した結果だしな。移籍してまで準指再受検するんだから絶対今度受かれよ!」
と声をかけて下さいました。
そんなこんなで新たな場所も決まり、10月の学科養成講習も済ませいよいよシーズン入りを待つのみとなりました。
配属先はパトロール
シーズンに入り現地入りした自分の配属先はスキー学校ではなく
『パトロール隊』
でした。
今では「パトロール隊に配属になって本当に良かった♪」と思ってるんですが、正直言ってこの時点では
「え?パトール?・・・」って感じで決して本意では無かったです。
コース規制・案内用の資材運んだり雪面硬化剤(硫安という肥料を使っていた)を撒いたりスコップでコースの凹凸を埋めたり削ったり、と力仕事割合が多いんですよね。
あとケガ人を搬送するソリ(アキヤボート)の扱いも準指の養成講習の中で一回やっただけだったので、初めの頃は訓練の度にバテバテでしたね・・・
元々要領のいいタイプではないのに加えて、力仕事らしい力仕事もやったことなかったので隊長や先輩から
「ボヤボヤすんじゃねぇ!!」
ってドヤされてばかりでした、しばらくは。
もちろん仕事終わった後とか仕事中に一息つく時は全然そんなことなくて、全員喫煙者だったからタバコ切れて自分の分一本分けてくれって言う時は、打って変わってみんな優しかったです。(笑)
隊長(漫画「北斗の拳」出てくる『山のフドウ』に似てるので以下フドウ隊長)とお互い好きなミュージシャンが一緒という事もあって一番早く打ち解け合えた、というのも自分にとっては非常に幸運なことでした。
酒どころ 飲みどころ
厳しくも根気よく親身に仕事を仕込んでくれる隊長・先輩に囲まれ徐々に居心地の良さを実感してきたんですが、結局そのスキー場を離れる時まで馴染み切れなかったことが一つだけあります。
それは
「酒(アルコール飲料)」
酒どころ新潟の中でも特にお米が美味しいと言われる魚沼地域だったんで、みんな常日頃から飲むは飲むは・・・
350㎖のビール空けるのに1時間かかる下戸の自分は、3日に一回はトイレで吐いてた記憶があります・・
ただ思い起こしてみると、パトロールやスキー学校、リフト・食堂・事務所他スキー場の面々老若男女みんな飲むのが好きというのは同じなんですけど、実際に体質的にアルコールに強くて飲まれなかった人は、記憶の限りではフドウ隊長と常勤の食堂のおばさんコンビの一人合計2名だけでしたね。
あとは、量の差こそあれみんな「飲まれるタイプ」でした・・・(苦笑)
リベンジなるか⁈
実技の養成講習も検定願書提出も終わり、日々の業務と非番の時の検定の練習、夜は学科の勉強と忙しく過ごす中検定本番まで1週間ほどに迫ったある非番の日の朝、フドウ隊長から「13時頃スキー場山頂まで来てくれ」と携帯に電話が入りました。
元々朝から練習しにスキー場に来る予定だったので午前中の練習と昼ご飯を挟み指定された時間にスキー場の山頂に上がってくると、そこには同じく非番だったフドウ隊長の姿。
「俺はスキー学校のみんなみたいに(基礎スキーや検定の)理屈を教えてやることはできないから、その分身体で教えてやる。付かず離れずで俺についてこい!!」
と言うや否や滑り出しました。自分も追いかけます。
日頃口では「どうも最近の基礎スキーのことはわからないなぁ・・」と言ってる隊長も、地元で生まれ育って指導資格も持ち合わせてる強者、必死で追いかけましたがあっという間に離されます。
そんな自分に対して振り向きざまに隊長が
「このまま突っ込んで行くぞ、付いてこい!」
と言って減速無しで急斜面へ。
「えぇ⁈マジでぇ⁈」と思いつつ意を決して自分も突っ込みます。
正直怖くて泣きそうでした・・(苦笑)
何とか必死でコントロールして滑り終えた自分に隊長が言います。
「ここで見とくからもう一回山頂まで上がって同じように滑ってこい!急斜面に入ったら6回転大回りしてこい」
言われた通りに再び山頂に上がり、隊長に付いて滑った時のイメージを思い出しながらスピードに乗せて急斜面に入り、大回り6回転。
滑り終えた自分に対して隊長が
「贅沢言いだしゃキリがねぇけど、12月に来た時と比べたらずいぶん上手くなったじゃねぇか!あれだけスピード出せて乗ってこれりゃ十分だ。検定自信もって行ってこい!!」
この数日前にも普段習ってた一緒に泊まり込んでる先輩(他県連所属の正指導員、以下南関さん)とスキー学校主任教師(以下主任)両氏から「合格圏内到達」のお墨付きはもらってはいましたが、このフドウ隊長の言葉でより自信がつきました!
再受検
フドウ隊長、南関先輩、主任、他先輩方やスキー場の皆さんに支えられ迎えた2回目の準指検定。当日は気持ちいいほどの快晴でした。
前回も会場が所属スキー場と同エリア内という地の利に恵まれましたが、今回の会場はまさに自分の勤務先!!地の利は完璧!
落ちたら絶対言い訳できません・・(笑)
腹を括(くく)れた
前述の通り会場は自分のホームゲレンデ、受検は一度経験済み、しかも言わば検定のために勤務スキー場も所属組織も移籍したとあっては何が何でも落ちるわけにはいかない!!
それに所属組織の代表者(以下代表)はスキー場運営会社の取締役でもあり、県スキー連盟の役員も務めている人(当時)。受かるにしても落ちるにしてもブザマな真似だけは出来ない!
何より、学校を出て人並みの就職をする道を投げうってスキーの道に進んだ。
検定当日になって改めてプレッシャーがのしかかってきましたが・・・
「ここまでやってダメだったらホントにもうダメなんだろう。だったらやめても悔いは残らないはずだ」
開会式が終わって検定バーンに向かうリフトに乗りながら、自分の腹が括られたのを実感しました。
旗門不通過・・
検定初日はポール滑走以外の実技検定と学科が行われましたが、苦手だった不整地(コブ)小回りも何とか大失敗なくこなし、他の実技種目もまずまずの好感触。
明けて2日目は午前中に実技のポール滑走・午後に面接が行われましたが、ここにきて大失敗らしい大失敗・・
2本滑走のうち2回目の滑走が旗門不通過により無効の判定・・・
この場合有効になってる1本目のタイムで採点されることとなります・・
「1本目普段にも増してあまりタイム良くなかったんだよなぁ・・とにかく祈るしかない・・」
後日耳にしたんですが、本当に「ギリッギリ」で合格だったそうです・・・
「やっぱり書いてないな・・」 えっ?
話は前後しますが、初日午後に行われた学科検定。
ちなみにこの当時の新潟県連盟実施の準指学科検定は、実技養成講習の時に配られる練習問題プリントの中から8割方出題、しかも選択式の設問より記述式の方が多いという形だったので、空欄にしなければ部分点を得られる余地があったのです。
悲しいかな再受検組なんでそこはよぉく解ってましたから、実技養成講習以降先ずはとにかくプリントをやり込み余裕がある日は市販の問題集にある同じような問題と解いて補完するという手法で臨みましたが、一つ全く目にした記憶の無い設問が!
そこにまるでタイミングを計ってたかの様に、試験監督をしていた代表が薄笑いを浮かべながら通りかかり聴こえるか聴こえないかギリギリの小声で
「やっぱりみんな書いてない、プリントにもわかりやすく書いてあったのになぁ♪」
何とか全設問書き埋めましたが、代表の言葉が最後まで気になってしょうがなかったです。
終了後配られた解答とプリントを突き合わせてみると、確かに代表の言葉通りハッキリとプリントに書かれていましたが
「これ普通問題にするか⁈」
と突っ込みたくなるような問題だった記憶は残ってます。(笑)
2シーズン目!
排水の陣、というほどの大げさなものでもありませんでしたが、再チャレンジした準指検定は見事合格!!
順位は50人強の合格者中11位。後日代表から聞いた話によると実技は平均点レベルだったけど学科の点数が3位だったのが大きかったそうです。
何はともあれリベンジを果たし、昨年とは打って変わって晴れやかな気持ちでシーズン終了を迎え地元奈良へ。
一応報告とお礼はしておこうと考え、帰りに妙高の前所属先に立ち寄ってから帰りました。
初の実感
準指受検を通して、特に再受検の際初めてというか久方ぶりというか、自分が上達したのを実感しましたね。
再受検ということで前回よりも更に気合を入れてたこともあると思いますが、自分のケースでは合格レベルに達することができた一番の要素は
「日々のパトロール業務」
だと思ってます。
- 資材を抱えての滑走
- 人員・(アキヤ)ボート合わせて100㎏前後の負荷がかかる搬送訓練
これらを経験を通して自分のバランス能力や運動パターンの引き出しが増え、通常の滑走練習の効果を上げた、と今でも推測しています。
これってモテ期?
スキーや検定とは関係ないのでしょうが、この時期の自分は何故か
「女性との縁が途切れない時期」
でもあったんですよね、ホント不思議なくらいに・・
夏場は地元・冬場は新潟双方で付き合った人が居て、さらにもう一人肉体関係込みでシーズン前の秋とシーズン終了直後に会ってた人が居たんです。
まさに「モテ期!」
幼稚園児以来の・・(笑)
家庭を持った現在とはまた違った意味で、最高に幸せな時期でした♪
3シーズン目!
妙高の所属先から移籍して3シーズン目、常勤を引退したフドウ隊長に代わり隊長となった先輩(本業は農家兼塗装職人、以下ペインター隊長)の下、通常のパトロール隊業務とタマにスキー学校からの要請でレッスンを担当する(もちろんその時間はパトロール隊からスキー学校へ一時配置換えとなる)という日々を送っていました。
仕事も前年よりも任される部分が増え、そういう意味では楽しさとやりがいを抱いて日々取り組んではいました。
ただ、この時期スキーヤーとしてもっと高みを目指そうとか新たなスタイルにチャレンジしようとかという気持ちはほとんど無いに等しい状態でしたね・・
準指取得に至るまで2級から数えて8回も受検してきたので、検定を含めてスキーそのものに以前ほどの熱量を持てなくなって居たんです・・燃え尽き状態・息切れ状態だったとも言えると思います。
もちろん、今となっては人生史上最高の「モテ期」突入で浮かれてたことも認めてますが(苦笑)、初回準指の頃の自分からは想像できなかった程のペースダウン振りでしたね。
テクニカル
準指合格の翌シーズンつまり移籍後2シーズン目の3月、所属先のスキー場でテクニカルプライズの検定が開催され、自分が移籍するきっかけになったKさんと、のちに同僚となるYさん(自分と準指同期合格、所属先の閉鎖に伴い移籍してくる)が受検してKさんが合格、Yさんは残念ながら不合格となりました。
スキーに対する熱量が落ちた一方で
「このままでいいわけがない」
という思いだけは何とか持ち続けていた自分は、非番の時にKさんの練習パートナーを何度か務め検定当日にもパトロール隊員として立ち会うことで、再び自分の中のスキーへの熱量が上がる事を期待していたのですが、結局変わりませんでした・・
テクニカル検定後日、一緒に泊まり込んでる南関先輩、主任、他諸先輩からも
「Kさんと比べればまだまだだけど、少なくともYさんよりはペンパパの方がこの先テクニカル取れる可能性あると思うよ」
と言っていただきましたが、実際にそれに向けて練習を始める気にはなれませんでしたね。
「検定に固執しすぎて、スキーへの情熱自体を浪費してしまった」
振り返ると、原因はそこしか思いつきません。
何事も「こだわり(固執し)過ぎるのは良くない」、ということだと思います。
モテ期終了の使者は・・
日々のスキー場従業員としての仕事に勤しむ一方、スキーヤーとしてはある種の閉塞感燃え尽き感を抱いていた3シーズン目、泊まり込みアルバイトでスキー場に働きに来た当時専門学校2年生のウチの奥さんと出会いました。
互いの第一印象は
「中途半端なギャル」
「ちょいエラそうな関西人」
とまずまずの悪印象でした・・(苦笑)
そんなお互いが出会ってひと月半後にデートして、深い仲になって、あたかも奥さんを追いかけるような形で北海道に渡り同じ会社で働き、挙句の果てに夫婦になって3人の子供の親になったんだから、世の中巡りあわせというか縁というか
「目に見えない何かの力」
に動かされる事ってあるんだなぁって思いますね。
このシーズンを最後に幼稚園以来の「モテ期」も終焉を迎えたので、奥さんはその使者だったんですね。(笑)
北海道へ
奥さんと出会った3シーズン目が終了して、自分は地元奈良へ戻り奥さんは就職先がある北海道の某地へと赴任したのですが、その時点ではお互い告白もせずされず
「付き合ってるのか付き合ってないのか定かでない関係」
だったのですが、連絡はメールなり電話なりで取り合ってました。
そんな中彼女の口から「結婚」についての話が出てくるようになって、自分も結婚について考えるようになっていって、とうとう新潟の某駅で奥さんを見送ってから約一か月後の4月の末にメールと電話で「プロポーズ」をするという運びとなったんです。
お互いがお互いを好きになり生涯の伴侶とみなしたからこその結果ですが、今になってみると当時の自分は
「スキーをやめるきっかけが欲しかった」
という部分もあって奥さんとの結婚を決めたのかもしれません。
非正規は「働いてない扱い」?
結婚となると彼氏彼女の関係のように
「二人の気持ちが最優先」
というわけにも行かないのも現実の話でして、奥さんの親に挨拶した際に
「非正規雇用の不安定さ」
を指摘・追求されたのも当然の話なんですが、自分はその事よりも自身の結婚を通じて非正規雇用というものの扱いが世間的には
「仕事していない」
という扱いに等しい事実に言いようもない無力感を味わいました。
アルバイト・パートという非正規雇用は、あくまでも学生や主婦、前職退職後次の就職までの繋ぎを求める者といった
「本業がある者が副業的、緊急時の代替的手段とするもの」
であり
「実際に働いてる側の意識・姿勢」などまるで考慮されない扱いのもの、なんですよね。
「心底その仕事を愛し、より高み深みを求める非正規雇用者」よりも
「単に生活の糧を得るだけという意識で淡々と仕事にあたる正規雇用者」のほうが世間的には
「仕事している人・働いてる人」であり
「ちゃんとしてる人」
なんですよね。
学校卒業してスキー場常勤への道を選んだ時から解っていたつもりでいましたが、現実にその「世間の壁」に向き合うと、自分個人の意識行動でどうかなるレベルのものじゃない事実に打ちのめされた気持ちでした。
自分が変わる方が楽?
義両親に結婚の挨拶に行った事をきっかけに、「世間の厚い大きい壁」に直面した自分もしばらくは
「いや、いつかきっと認めてもらえるに違いない」
と淡い期待を抱いて悪あがきをしていたのですが、ある日知人と食事をしながら結婚に関する話をしているときにその人が
「世間の壁を壊そうとか奥さんの親御さんの見方を変えようとすることに労力使うくらいなら、自分を変える方がよっぽど簡単で楽でいい結果を産むとおもうけどねぇ・・」
と言われたんですよね。その時は「ふーん、そんなもんなんすかねぇ・・」程度にしか思ってなかったんですが、日が経つに連れ結婚の話が具体的に進むに連れて
「知人さんの言う通りかもしれないなぁ・・」
と思うようになりました。
ただ、自分のそんな意識変革をもっと早い時期に行えていたら、同じ結婚して子供も居る現状であっても、もう少し楽でより良い部分が出来てたのかもしれない、と思います。
結婚
「当面はこちらも幾分余裕があるので万が一の際金銭的・物的援助することも可能」
という奈良の両親の援護射撃を得た事も手伝って、何とか義両親に奥さんとの結婚を認めてもらった自分は、奥さんと同じ会社の期間契約従業員として夏は遊園地スタッフ・冬はパトロール隊員として働きながら結婚の準備を奥さんと共に進めていきました。
ちなみに奥さんはその会社の新卒採用正社員として、夏はゴルフ場のフロントスタッフ・冬はスキー学校の受付業務に従事してました。奥さんは「正社員」でしたから厳密に言うと自分の「上司筋」であったわけです・・(苦笑)
当時それが逆だったらほんと何も問題なかったんですよねぇ・・・
会員制の結婚式
「結婚式・披露宴をどこで執り行うか?」
二人揃って北海道とはそもそも縁もゆかりもない本州出身でしたから、当然そこが課題となるわけです。
北海道内か
自分の地元奈良か
奥さんの地元東京か
はたまたその3か所でもない別の場所か
お互いの当時の交友関係の実情、双方の両親とも相談した結果を踏まえて出した結論は
「北海道、会場は勤め先のホテル」
となりました。
無論、北海道の風習に従い「会費制」での結婚式でした。
新潟魚沼のスキー場関係者の中からは
- 所属組織代表ご夫妻(奥さんがバイトの時ご夫妻宅が宿舎だった)
- 非常勤の先輩Aさんご家族(ご夫婦・男の子二人)
- 非常勤の先輩Tさんご家族(ご夫婦・男の子一人女の子二人)
の計11名が駆けつけてくださいました。代表が乾杯のご発声を、両先輩のお子さん達が花束贈呈役を引き受けてくださいました。皆さんには今でも感謝です♪
あれから15年以上経ち、先輩のお子さん達もすでに成人してるので、そろそろ結婚の噂も聞こえてくるかもしれません。(笑)
この自分たち夫婦の結婚に関する諸々話は、また後日改めて記事にする予定です。
スキーの仕事からの離脱
元々新潟のスキー場時代からすでにスキーヤーとしての熱量を無くしかけていた自分は、結婚に際して非正規雇用具体的にはスキー場常勤の仕事に対する「世間の壁」に打ちのめされたことをきっかけに
「スキー場パトロールの仕事に対する熱量」
も急速に無くしていきました。
厳密に言えば
「最初から世間の壁に直面したら無くなる程度の熱量だった」
ということだったんですよね、今になって思うと。
自分自身の就職は投げうてても、結婚そのもの、奥さんやその周囲の反応も一切意に留めずスキーの道・スキーに関わる仕事の道を選ぶ程の熱量では無かったってことなんだ、と思います。
北海道に移って3シーズン目の春、スキー場運営会社を退職。
以降、今日に至るまでパトロール・イントラの仕事には就いていません。
離れれば楽しい?
スキーに関わる仕事を辞めた約1年後に長男が生まれ、その後娘も生まれ次男も生まれ、自分の方はいくつか職を転々としつつ、結局北海道には10年住んだんですが、スキー場辞めてからしばらくはスキーに乗らない・ゲレンデにも上がらない日々が続きました。
ぼちぼちゲレンデに出向くようになったのは、娘が生まれて長男が保育所年少になった辺りから。時々休みの日に長男がスキーのレッスンに入ったんで、子供のレッスン終了までの間フリーで滑ったり自分もレッスン受けたりしていました。
「雪に触れたらまたスキー場の仕事がしたく・・・」
なんて気は不思議なくらい(?)起こりませんでしたが、スキーそのものへの熱量は完全に失ってはなかった事に気づきました。というのも、どのコース・どのバーンを滑り下りても
「もう一本行こうかな?」
「あぁ、このバーンのあの辺りのターンしくじったな・・よし、リベンジ!」
なんて事は思っても
「面白くないや・・」
とは一度も感じなかったんですよね。
改めて
「俺ってやっぱスキー好きなんだなぁ」って思いました。
あとがき・再デビューに向けて
スキー場常勤という働き方・生き方を選んだことで、社会人としては余分な回り道をしてしまい苦労もしましたし、今でもそれが本当に正解だったのかと訊かれても自信をもって
「はい!あの道を選んでよかったです!」
とは言えませんし、言う気にはなれません。
ただ、現状は毎年冬になるとスキー場があるところには雪が降り積り、スキーを楽しむ人たちが訪れている。そして、自分は今現在、思い立った時にすぐスキー乗りに行ける状態では無いけれども、そこを打破できる余地はある。
とりあえず、久しぶりに一本滑りたい!
この願いを叶えるべく、できる所潰せる所から進めていこうと考えてます。
長文、お付き合いいただきありがとうございました。
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